ナラティブというには曲り拗れた未完の小話(長話)
始めに
ぼくがこうして花を通じて人と関われてるのは奇跡に近いと思っている。
略歴ではなく、ぼくの物語をここに記しておく。
10代の頃から上手に社会参加できず上手に学校に通うこともできなかった。
対面でぼくと会話をした方なら分かると思うが、ぼくは発声がやや鈍い。
不登校の時期に声を出して友達と話すという機会を損失していたことがこの発声の鈍さにつながっているのでは?と密やかに思っている。
定時制高校を卒業してあてもなくフリーターを続け、燻っていた20歳の頃にバイト仲間のMくんに勧められた小説家・安部公房の『壁』を読み、とてつもない衝撃を受けた。
そして、当時流行り始めた国産SNSに安部公房やドストエフスキーに影響を受けた文章を書き始め、バイト仲間のM君と理系の先輩N氏と文学やら美術についてだらだらと話していたのが青春っぽかった。
早速の余談だけれど、三島由紀夫の『金閣寺』をそのころに読み、吃音の主人公の苦しみに自分の発声の悪さを重ねていた。
声がスムーズに他者に届かないことのもどかしさは社会への接続の不安定さを生み、内向性を高めるのだと合点がいった。
電波が弱い環境でのインターネット接続を思い出してみてほしい。
電波の先には膨大な世界が広がっているのに、そこに接続できないとデバイスのローカル情報を噛みしめることしかできない状況を。
そんな、バイト先でハンバーガーパティをひたすら焼き続けるぬるい環境に居ながら安部公房と美術の接合点を求め、絵本が描きたいなどとあても思うようになった。
ひょんなことから(親の力を存分に借り)イタリアに一年間滞在することになり、就職していく同級生を尻目に22歳のモラトリアムを延長するかの如く、国外で美術への関心を強めていった。
滞在中はフィレンツェとミラノに半年ずつ住み、ルネサンス美術やバロック美術、時折近代芸術などを眺めていた。大まかな美術の流れをなんとなく理解した(宗教絵画から当時の風俗的な絵画や風景画から徐々に印象派が生まれそこから抽象画が誕生していく流れがとても興味深いと思っていた)。
イタリア滞在時にボローニャの国際絵本展に現地参加してみた結果、私には絵本を本気で描くための技術も熱量が足りていないことを知り、23歳で帰国後は何かイラストにフィードバックできる仕事をしようと決意。
実は高校を卒業したあとに3ヶ月だけ花屋でバイトをしていたこともあり「色を使う花の仕事ってイラストにいいんでは?」と考え、街の花屋にバイト勤務した。
おじさんが一人店長を務める限りなく小さな花屋でアレンジメントや花束の作業を眺めながら、美術にかぶれていた青年前田は日々の業務に美が足りないと思い、安部公房の『他人の顔』から着想を得た花面を被って遊んだりしていた。
ただ精神的にも社会的立場でもまだ燻っていた。とは言えB’z稲葉先生のソロ作品[マグマ]を聴いて感銘を受けつつ、冷血でもなければ灼熱の人でもない、ただぬるいマグマを抱えた凡人であると感じ、意を決し別の花屋に正社員として就職。
新しい花屋はブライダル中心の花屋だった。
そこの京都支店に入った当初、ぼくの作業の仕上がりを見た上司の竹内さんはかわいい笑顔で「前田君、向いてないから辞めた方がいいよぉ」と言い放ち、ぬるいマグマが煮えたのを今でも覚えている。
けれど、かわいい笑顔の上司が割とすぐに退職されるにあたり、なぜかほぼ素人みたいなぼくが、その他のスタッフを差し置いて、社長判断で京都支店のリーダーにいきなり任命されてたじろいだ。しかし断りはしなかった。 マグマは煮えていたのだ。
送別会でかわいい笑顔の上司にぼくは「over the Takeuchi」と書いたイタリアで浮かれていた頃の自分の写真を渡した。
その後、装花スキルが上達するにつれ、社内の反応も良くなっていくことで社会と繋がりを覚えたぼくは、初めて結婚式の装花を決める打ち合わせで担当者として振る舞ったときに、練習通りの固い言葉しか出てこず困窮。同席スタッフに助け舟を出してもらった。
「あぁそうか、自分は社会に不慣れなのだ」とその事実を思い出す。
またマグマが煮える。バックヤードでは安部公房やドストエフスキーの言葉の力を借りて人を笑わせることができるのに、なぜビジネスシーンで真面目な話ばかりしているか。
表面で人の心を掴むには、安部公房やドストエフスキーを花で包んで話せばいいのだ。
そう意識して打ち合わせに挑むと、少しずつ打ち合わせがうまくいき、笑いのあるなごやかな会話を獲得できるようになっていった。
そういえば、その後edalab.として活動してから学生さんや働き始めた20代に向けた働き方のトークセッションに呼ばれたことがあり、そこで「私は上手にリアクションが取れず、周りから反応が鈍いと思われていて、心むずかしい瞬間がある」といった質問を受けた。
確かに日々の細かいシーンでリアクション芸人のノリみたいなものを求められることがある。そこで声や挙動でその場を支配することができる人もいれば、そうでない人もいる。
けれど、できない人が全員面白くないかと言えばそうでもなく、絶妙な返答で笑いに変える人もいる。ぼくはやはり後者である。だから、ぼくはその質問に「流通している動作や言葉でリアクションする必要はないですよ。普段から自分の中の言葉を探っておいて、その時々で人が想定していない言葉を返せば、それがあなたのリアクションになるのだから」と答えた。この言葉がどれだけ質問者に届いたかは推し量ることはできないけれど、自分の言葉で自分の想いを伝えるほうが他者に響くというのは、社会参加が難しかったぼくが婚礼の打ち合わせをこなして身に付いたものの一つだと思う。
そうなると事態は好転し、社内でのポジションも明確になっていく。
スタッフからたくさんのサポートを受けて、なんとかリーダーとして社長の右腕として花のデザインを吸収したり吐き出したりしながら奮闘していた。今思うとただ若い情熱だけで走っていたようにも思われる。
その情熱は同年代の友人がSNS越しで活躍しているのを見るたびに焦りに熱を移していき、仕事の充実とは別の部分でずいぶんと燻っていた。
この状態がいつまで続くのだろうかと漫然としているころに結婚し、その直後ワイフから「あなたのオーバーワークの結果、我々は家族として機能していない」と是正要求を受けてたじろいだ。
「いっそ独立すればいい」とワイフは言うが、これまで自主的に何かをなしたことがない僕はオーバーワークでも労働者が似合っているし、独り立ちできるのかと不安に燻された。
社長に相談すると「独立向いてないから退職はやめとき、いっそ東京支店まかせようか」と諭される。
経営者からそう言われるのはわかっていたけれど、それでも自分のポジションを新たにもらえるのならそれでいいと思い、ワイフに「東京行き案が出たよ」と報告すると我々の間に凄まじい冷気と亀裂が走る。
椅子の軋む音が間を取り持つほどの沈黙の後に「会社辞める」と呟き、翌日社長に退職の旨を伝えた。
こうして独立に向けて動き出すのであった。
それが2015年秋のことである。
とはいえ、まだ会社には在籍しており、京都支店のある場所が京都のクリエイターや若い世代の個人事業主が集まる場所で、そういった方々にまずは自分を売り込んでいく必要があると意気込んでいた。
いまのedalab.という屋号も2015年の冬には考えていた。
前田のラボでedalab.(エダラボ)としたけれど、文字の並びがバランスよくて今も気に入っている。
予見はしていたけれど、木の枝に関わってるんですか?という質問が多く
その都度「いえ、前田のラボラトリーを略してedalab.です」というやりとりを何度もしているのだけれど、言語的な部分でマエダを音声にしたときに、わたくしの発声の鈍さから頭文字は聞き取りづらく、末の字のほうが音として印象に残りやすいのでは?と考えた。
続く